まちの概要

更新日:2018年10月01日

「鶴舞う形の群馬県」-明和町は、その鶴舞う形の首の方(東南端)に位置し、気候は比較的温暖で南に利根川、北に谷田川が流れる水と緑が豊富な地域です。また、町の中央を走る東武伊勢崎線や国道122号、東北自動車道等が配列されるなど交通条件にも恵まれた地域で群馬県の中でも東京に一番近いところです。

位置と地勢
標高 約17〜21メートル
経度(東経) 139度32分
緯度(北緯) 36度12分
東西 約11キロメートル
南北 約3キロメートル
面積 19.64平方キロメートル
明和町の菊の花の写真

町の花(菊)

明和町のつげの木の写真

町の木(つげ)

明和町の町章

町章

明和町の町旗

町旗

上空から見た明和町の写真

 明和町は、「町の中で一番高いのは利根川の土手?」と冗談を言われるくらい、関東平野独特の平らなところにあります。町の南を流れているのは、坂東太郎と呼ばれる利根川で、こちらの土手から向こうの土手まで約700メートルもあるような大きな川です。この川に沿って東西約11キロメートル、南北3キロメートルの細長い形をした町です。
 この町には、矢島遺跡があることからもわかるように、縄文の時代から人が住み、文化が育まれてきたところです。明治の文豪、田山花袋もこの地を愛し、多くの執筆をされました。花袋は、小説「土手の家」で、明和町川俣地内にあった方形造りの2階屋の料理屋を素材にし、旅館業を営む料理屋「田中屋」の淀んだ空気と、無垢の女が生々しい生活の中で、次第に汚染されていく姿を船着き場、川俣の空気を背景に執筆しています。この田中屋のモデルとなった建物は、最近まで実在していました。
現在は、ふるさと創生事業で展開されたふるさとの広場周辺を中心に、新しい文化が育まれています。同広場内には、芝生広場や多目的広場・テニスコートや海洋センター・ふるさと産業文化館や図書館が整備され、人と人とのふれあいや新しい出会い、そしていつでも気軽に集うことのできる憩いの場として、みんなに親しまれています。

川俣事件(足尾鉱毒関係事件)

午後1時過ぎ衝突時の警官の移動図

今から、およそ100年前の明治33年(西暦1900年)2月13日、日本で初めての公害闘争と思われる事件が、明和町の川俣地内で実際に起こりました。本町から北へおよそ10キロメートルほど行くと、足尾銅山へとつながる渡良瀬川があります。当時の渡良瀬川は、毎年台風時期になると必ず土手を決壊し、足尾銅山から流れ出た胆礬(たんばん)を大量に含んだ大洪水が村々を襲い、米一粒の収穫も見られないほどに、甚大な被害をもたらしていました。
 これに耐えかねた被害農民は、その原因と見られる足尾銅山の鉱業停止と渡良瀬川の堤防工事を直接政府に訴えるための上京(押し出し)を決意、今の館林市にある農民運動の拠点だった「雲龍寺」を出発しました。そして、その一行が明和町に入り、利根川手前の川俣地内まで来ると、それを阻止しようと待ちかまえていた警察官と激しい衝突が起こりました。 この衝突事件が川俣事件と呼ばれるものです。明和町は、約100年前のこの川俣事件の現場となったところでもあります。

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